
By Focus Features – http://www.impawards.com/2025/phoenician_scheme.html, Fair use, Link
はじまり
大富豪ジャージャー(とカタカナ表記してもいいのでしょうか)はその情け無用な金儲けっぷりのため、世界中から恨まれ何度も暗殺されかけてきたが、最悪の飛行機墜落を生き延びたとき、疎遠だった娘にすべてを引き継ぐことを決意する。ところが、久々に呼び寄せた彼女は清廉潔白な聖職者だった……。
ミタメモ
ウェス・アンダーソン監督の新作なので、正しい解説や鋭い批評は、いろいろなところからやまほど出てくるだろうから、いいとして。
今朝、ふと思ったことを書きます。
わたしは基本、善い人でいようと思って生きています。でも、いつでも完全に善良でいられるわけじゃないし、ときには嘘をついたり罪を犯したりすることもある。でも、努力目標として、生き方の立場は、善い人であろうとする側にある、と思っている。
だけど、なぜ?
自分が善い人でいようとするのは、悪人として生きるよりシンプルですむからじゃないかと考えました。
善い人でいようとすることは、簡単だとは思わないけど、往々にして理屈がシンプルだと思う。人が苦しむよりは喜ぶほうがいい。人を殺すのはよろしくない。自分も幸せになりたいが、同時に他人も幸せならもっといいとする。そして、自分の信じる神の禁じることをしない。とか、そんなシンプルさ加減がいい。
そんなシンプルさはラクだけど、ときに人は、ここから先は悪人として生きるのだ、と心得ることがあるのだとも思います。理由はさまざま。必要な金をかせぐため、家族を守るため、または自分が渇望する幸せのため。自分の属する組織を立ちゆかせるため。などなど。
悪人として生きると決めたら、そこからは、してはいけないことやしたほうがいいことは、お母さんやおじいちゃんや師匠や神様に質問している場合じゃなくなる。自分で定めないといけない。それはそんなに簡単なことじゃないはず。かなり脳味噌を使うことだろう。だから私のような凡人が常日頃からできるようなことじゃないだろう。だから私は基本、その立場には自分をおかないことにしている。だけど人によっては、そうせざるを得なかったり、そのほうが自分に向いているとか楽しいとか快感だと思って選択する人もいるだろう。それはけっこうなご苦労様なのだと思う。
でも、そんなたいへんなのに悪人として生きる根拠となる状況は、永遠には続かなかったりする。悪として生きると決めた人でも、状況の変化で、そろそろ頭のラクな善人になってもいいんじゃないかと思う日が来ることも、あるかもしれない。
善人でいるほうがラクじゃない? という前提がほんとうにあるとするなら、むかし悪人として生きねばならないと決めた人があるときそこから「善い人として生きるんでもいっか」と戻ってきたとき、それは物語のハッピーエンドのひとつになり得るのだろうと思う。
そういえば、そんな映画だったような気がします。
なぜみた
ウェス・アンダーソン監督の新作だから。
どうみた
Angelika Film Center New York。独占プレミアの会場だったらしく、カフェが映画の舞台みたいになっていて、Tシャツまでもらえた。
どんだけ
1時間41分
いつくる
ところで
ウェス・アンダーソンの誕生日は私の誕生日と同じ! これ書くためにネット検索していて気がついた。同じ誕生日の有名人の名前リスト、あまり華がないなと日ごろから不満に思っていたので、有名映画監督、ちょっとうれしい……。