
はじまり
心臓病の特効薬を作るため、陸空海の恐竜DNAを採取せよ! 命令を受けた特殊工作員ゾーラは、製薬会社にやとわれた古生物学者とともに、熱帯の恐竜生息地へ飛ぶ。ところがそこには、過去の研究ミスで生まれた恐怖のモンスターが待ち受けていた……。
ミタメモ
……と、あらすじを書いていても、ひねりのなさにガーンとなる。ひねりがないのはべつに私はいいのだけれど、キャラクターに愛着を持てず、よくあることなのかもしれないけどスカーレット・ヨハンソンさまの無駄遣いに感じてしまい、じつはちっともノレなかった。
とはいえ
とはいえ、本家のジュラシック・パーク第一作目は好きです。
あの、生きて動いて暮らしている恐竜を目の当たりにして、登場人物たちといっしょになって「うわぁああああ(キラキラキラ)」と目を輝かせた映画体験の記憶は、かけがえないと思う。
そんなジュラシック・フランチャイズ伝統の「うわぁああああ(キラキラキラ)」シーンがこの映画にもあったので、私は個人的にはノレなかったとはいえ、いいとおもう。チケット代のもとは取りました。このあとに書くのはどうでもいいうんちくです。読まなくてもだいじょうぶ。
うんちく
本家ジュラシック・パークはホラー映画の構造をしている。
主人公たちが、異なる文明世界に迷い込み、しかし彼らをコントロールすることはできずに暴れられてひどい目にあう。ホラー映画における恐怖の対象は、政治的には異人種や異文化。そこに魅了されて近寄ってひどい目に合う人の物語は昔から山ほどある。
ジュラシック・パークも、そのひとつ。だけれど、その恐怖の対象に対して「うわぁああああ(キラキラキラ)」という、畏怖とも言えそうな強い憧憬の念を表現したのは、今から思えば、ラディカルで新世代で素敵だと思う。憧れてたのにそれに反してたっぷり恐怖を味わわされ、それを経た最終的な結論が「ここから去り、彼らをそっとしておこう」であったとき、「うわぁああああ(キラキラキラ)」の憧憬から一本筋が通り、感動が呼び起こされる。
骸骨島で発見したキングコングをニューヨークに連れてきて見世物にしたうえ、コントロールできずに暴れられてひどいめにあったので殺して「この華やかな暮らしには順応できない悲しいやつだったな……フゥ」と高度文明人としての上から目線の感慨を得ることをエンタメ化していた(たぶん)あのころ(1930年代)のモンスターホラーと比べたら、当たり前だけれど、ジュラシック・バークの感動は新しい。その先の世代、カウンターカルチャー世代の感動だ。いってみれば反体制的な、こっちよりあっちの世界のほうが優れているかもしれないという予感によるゾクゾクするような恐怖と憧れが、ジュラシック・パークにはある。力への恐怖と憧れはいつでも表裏一体だけれど、それを正面から認めてしまっているからジュラシック・バークはカッコいい。
(スピルバーグ映画でいえばジョーズにも似たような感情があるけれど、サメより恐竜のほうが「子供のころあこがれていた」というところへの視聴者の共感度が劇高い。そういえばETにも未知との遭遇にも、ホラー構造ではないけれど、異文明への純粋な憧憬がばっちりある)
今回も「うわぁああああ(キラキラキラ)」シーンはあるものの、その前の映画冒頭では、恐竜はいまや主人公たちの国土に入り込みなおかつ順応できずに弱っており、交通渋滞なども引き起こし社会の迷惑になっている。この世界の体制的な視点からの「異物に迷惑」加減がなんかイヤーンなかんじで表現されており、そのうえで「でもオレら人間のためになる物質を持ってるらしいから、あいつらの本拠地に行って取ってこようぜ」という、主人公たちのゴール自体なんとも人間中心主義というか高度文明中心主義で、また30年代に帰っていくのかな。ここ最近おなじみの退屈さを感じてしまうのです。
どうみた
どんだけ
2時間14分